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歴史介紹

投稿 2014/4/15 下午 12:22:36

1930年ハヤシ百貨が台湾の流行時代をスタートさせる

1932年12月5日にハヤシ百貨店開業、台湾のモダン時代を開いた。
1930年代は台湾の近代文明のスタート時点である。
電灯、電話、水道水の普及、飛行機、自動車などの文明が台湾に入った。
台湾では喫茶店が流行り始め、ファッション文化、映画、レコード・プレイヤー、ジャズ音楽も現れた。
開放的な考えで自由恋愛を主張、洋服は和服に替わり、西洋教育も日に日に普及された。これが1930年代の台湾である。
1932年に古倫美亜レコード会社は台湾語の映画《桃花泣血記》と同名のテーマソングを発行。
1933年に鄧雨賢氏の《ダンス時代》は台湾はじめてのポピュラー音楽歌手の純純(本名劉清香1914―43)をヒットさせ、同年に鄧雨賢氏は台湾のクラシック歌謡曲の《望春風》、《雨夜の花》、《月夜の愁》などの人気曲を作曲した。

太平洋戦争が起こることにより、台湾のダンス時代はエンディング曲が流れ出し終息を迎えた。
ハヤシ百貨店も台南市とは短い縁で終わってしまった。

 

【ハヤシ百貨店の創業人 林方一】
林百貨(ハヤシ百貨店)は俗に五棧樓仔(Gō͘-chàn-lâu-á,5階建てビルの意味を持つ)ともいわれ、日本人の実業家林方一が出資したものである。林方一は明治16年(1883年)12月6日に山口県の山村に生まれ、両親を幼少の頃に亡くし、少年時代は叔父と叔母の世話になった。しかし、その叔父と叔母も相次いで亡くし林方一は姉と弟とだけで互いを頼り合って日々を過ごした。明治35年(1902年)、林方一は生計を立てるために独りで家を離れて他郷で奮闘した。山陽鉄道株式会社に入社、6年後に会社をやめて、運送会社を創業した。当時まだ若かった林方一は明治45年(1912年)4月に会社を閉めて、同年に台湾に渡り台南にて奮闘。その時運良く呉服店「日吉屋」のオーナー馬場徳次郎に出会い帳場を任され次第にマーケティングを理解するようになった。また商売の腕と凄まじい洞察力があった林方一は8年後に馬場徳次郎の協力の下、大宮町一丁目二番地(現在の全美映画館を曲がったところ)の建物を借り小さい商店をはじめた。その後続々と2社の店を開いて、多くの利益を上げた。続々と4つの会社に投資したためハヤシ百貨店の創立資金を貯めることできた。そして1932年12月5日、ハヤシ百貨店はグランドオープンした。「七重天」と呼ばれる台北の菊元デパート(すでに解体した)より数日遅れでオープンし、菊元デパートの次に並んで第二の大型百貨店となった。南地方では最大級の現代百貨店になる。残念ながら林方一は百貨店オープン前に倒れ、1932年12月10日に台北で病死した。
2013年1月上旬、林方一の次男の妻、林千恵子さんは家族を連れて日本から台湾に来て、ハヤシ百貨店を訪問した。オープンから80年を経って、初めて林方一の子孫たちはハヤシ百貨店内に入った。

林方一全家照 林方一葬禮

林方一と妻の林とし(旧姓小寺)の間には4人の子供がいた:林 一郎、林 二郎、林 三郎、小寺 茂です。上図は林方一氏の家族写真

1945~2013,戦後暗い歳月の流れ
1945年太平洋戦争が終結した。ハヤシ百貨店は市街区の政治経済の中心地と隣り合っていた為米軍の空爆の影響を受けた廃業。終戦から数年後、国民政府は来台し、台湾製塩総工場(今の台塩実業株式会社)と塩務警察総隊はハヤシ百貨店を共用の事務所とし、屋上は防空軍備用に使われた。1977年(民国66年)塩税の廃止により塩務警察総隊が「台湾省保安警察第三総隊」に改正された。ハヤシ百貨店ほぼ全棟が台塩実業株式会社の事務所として利用され、その後台塩実業株式会社は現住所にある健康路に移した。1998年(民国87年)ハヤシ百貨店は市定古跡に認定され、所有権は台南市政府に属し、修復工事が行われ、ついに2013年1月に完成した。

2013年萌え出る春の芽

2013年にハヤシ百貨店の修復工事が完成し、台南市政府文化局により経営業務委託に係る運営業者の公募を実施し、公開選考の上でFOCUS(高青開発股份有限公司)が委託経営権を取得した。そして開業から81年後、ハヤシ百貨店は文化創作の新しいスタイルの百貨店として再生し、台南のニューモダン時代の窓口となり、新芽が萌え出る春のように新しい物語が始まり、台南の新しい生活スタイルが展開される。